[字音]トウ・タイ [字訓]ひとしい・はかる・まつ・ともがら
[形声]声符は寺(じ)。寺に待(たい)・特(とく)の声がある。〔説文〕五上に「齊(ひと)しき蕑なり。竹に從ひ、寺に從ふ。寺は宮曹の等平なり」と官寺の意を含むとするが、形声とみてよい。〔孟子、公孫丑上〕「百世の後よりして、百世の王を等(はか)るに、之れに能(よ)く違ふ莫(な)きなり」、〔周礼、夏官、司勲〕「以て其の功を等(はか)る」のように、差等をはかる意。もと木簡の大小を整える意であろう。「まつ」の意は、待と通用の義である。
[訓義]
1.ひとしい、ひとしくする、ととのえる。
2.はかる、大小をはかる、くらべる。
3.待と通じ、まつ。
4.等差、貴賤、大小、しな、ともがら、たぐい。
5.なに、どんな、何等。
[古訓]〔名義抄〕等 ラ・ヒトシ・タグヒ・トモガラ/等夷 ヒトシク 〔字鏡集〕等 コレ・ナホシ・トモ・ヒトシ・トモガラ・アマネシ・ナシ
[語系]等təng、同dongは声義近く、差等をはかってこれを同じうするを等という。また待də、イ待diə、俟ziəと声近く、いずれも待つ意に用いる。唐・宋以後、等を待つ意に用いることがある。
等は「ひとしい」でもあるが、どちらかというと「等しくする、測って同じにする」と言う意味合いが強いようです。これはつまり、人の手により比較し、比較後に揃えると言う事です。初めから同じである訳ではないのですね。
古代、物品は大きさや品質が不均一でした。山菜の採集や漁撈、農産物は、その大小・重さ・収量が均一ではないという事です。これは行政によって課せられた義務を、ある人は多く、ある人は少なく見積もられる事になりかねません。これでは不公平ですよね。ですから、その労働や収穫量を正確に計量して貰えるシステム「権」が登場するわけです。
バラバラな状態を綺麗にまとめ、規格を揃えるのが「等」であり、等しくする行為を許される事が「権」です。これは生まれながらに「等」しいのではありませんし「等」しくする為の作用を受けるのです。
さて、ここまでを纏めましょう。
「平等」は最初から「平等」ではない。
計量され平らに均(なら)される事が「平等」である。
ちなみに、漢字「平」は
[会意]于(う)+八。于は手斧(ちような)の形。手斧で木を削り平らかにする。その破片が左右に飛ぶ形。
初儀における強制力は斧なんですね。
そして言うまでもない事ですが、平等を主張するという事は
自由は剥奪され、ありのままの姿では居られなくなる
と言う事です。当然ですよね。なにがしかの強制力により、不均一が整えられ等しくなるのですから。
人類は生まれながらに、二つの性を持っています。
二つの性は異なっているから二つに分けられています。
この異なる性に対して「平等」を唱える事…
私には、それは恐ろしい事に思えてなりません。